「社長のコラム」 KEN SADAMATSUの軌跡

ホーム  鱒屋  武蔵  誠シティ  誠チャッツウッド  Miso  MASUYA Group について  求人情報  ご質問・お問合せ

パート表示
5月
日本食レストランの鱒屋グループ
 
コーナー 【その2】 コーナー
  前号では、ワーホリから永住ビザへ、そしてホテルでの仕事、25歳でのカレー・レストラン開店の決意までを述べてきた。
食に関しての「第1部その2」として、今回は、カレーという料理の、国による食文化の違いを紹介しつつ、25歳からの5年間の経過を語ってゆく。
 
コーナー   コーナー

世界のカレー料理と、私のカレーライス

 皆さんは、リンゴとハチミツが入ったハウス・バーモント・カレーがオージーにも喜ばれると思わないだろうか?それに唐揚げやビーフカツ、エビフライなどをのせてみる。
その当時は絶対ウケると確信していた。だから挑戦した...。


 今なら、タイ人、マレーシア人、インド人は日本のカレーライスを好むかどうか経験から分かる。
オージーは、ディナーでワインを飲みながらカレー料理を食べる時、日本のカレーライスより、タイまたはインドのカレーの方が合うということ。
では、世界のカレー料理とはどういうものなのか...。


 
鱒屋社長 定松 勝義

■筆者プロフィル
本名:定松勝義
鱒屋レストラン・グループ社長
1961年12月5日生まれ
愛媛県北条市出身
84年ワーキング・ホリデーで来豪
85年オーストラリア移住
現在、シドニー市内で「武蔵」、「誠」、「鱒屋」のレストラン3店舗を経営
 

 話は変わるが、日本の焼き肉と韓国のマリネした焼き肉、日本人のあなたはどちらがおいしいと思うだろうか?日本人なら99%日本のスタイルだと言う。しかし韓国人は自分の国の焼き肉がおいしいと言う。よくワーホリの人が、タコ焼き、お好み焼きをオーストラリアで売ると大ヒットすると思っているが、オージーはお好み焼きよりピザの食感と味の方が好きであり、あのお好み焼きの少し酸っぱく甘いソースを、特にフィリピン人や中国人の中には嫌いな人がいるということが、「武蔵」を経営してみて分かった。しかし、お好み焼きには可能性がある。誰もやっていないのだから。やりながら考えてみてはどうだ? Boys be Ambitious !

 さて、私のカレーライスは、5年間にわたって、週1、2度、ディナー終了後の午後11時ごろから作り始められた。タマネギ約25キロの皮をむき、スライスし、ギーという油脂で約2時間あめ色になるまでソテーした。それと同時に、試作を重ねたストックとスパイスを合わせ、夜中の2時になるころ煮込み始め、途中で日本のカレーのルーを入れてゆく。底が焦げないよう、うとうとしながら1人で早朝5時ごろまで混ぜ続ける。

 しかし、研究期間2年、その後営業5年間のうち、自分でこれはおいしいと思ったのは、1度だけであった。それはなぜおいしかったのか、奇跡が起こったのか?それだけ本物の味を一定水準で作り続けるということは難しいのである。

 店では、レストランの形態でカレーを提供した。そしてメニューには、寿司も刺し身もなく、ほとんどオリジナル・メニューで勝負した。今から思えば、本当の調理人としての実力も経営者としての力も十分でなかった。あったのは、人一倍の意気込みのみ。

 

地元紙にも高い評価を受けたカレーライスのメニュー

地元紙にも高い評価を受けた
カレーライスのメニュー

苦悩、挫折

 妻の恵智子とワーホリの仲間たちで、ペンキを塗り、前庭と裏庭を整地し、必死でオープンさせた店は、1987年7月1日に産声をあげた。5万5,000ドルでタイ人から営業権を買い取った。場所はシドニー大学に近い、グリーブ・ポイント・ロード22番地。店の両側にネオンを付け、前庭、裏庭に7テーブル、店内40席の合計70席。シェフは私1人で、キッチン・ハンド1〜2人。自分がケガをしたり病気になれば、店はオープンできない。週7日無休での営業だった。

 しかし、私が一生忘れることのできない7月7日(七夕の日)、なんと客数はゼロだった。私は調理場に座り込んで途方に暮れた。残り少ない資金、長期のリース契約...。
夜逃げしてもオーストラリアにいる限り、家賃の支払いは続いていく。正直、苦しんだ。そして、毎日改善を試みた。今日が昨日と同じなら、つぶれてしまう。その当時の予約帳、売上帳を見てみると、1日の売上は400ドル程度。しかし1年後には、売上1日700ドル、客単価17ドルとなった。妻と私は、返済金のため給料は取れないが、資金が回る状態にはなった。

 そして、28歳になった私は、妻の実家、秋田県八竜町で、一面雪景色の中、ささやかな結婚式を挙げた。ロサンゼルスにも行き、ハウス食品が展開しているカレー・ショップの繁盛ぶりを視察したりもした。

 そんなころ、たぶん今日は暇だろうと予想していたある日曜日、なんと予約の電話が鳴り続け、お客様が列をなした日があった。翌日、オージーの友人から、シドニー・モーニング・ヘラルド紙の記事で4つ星レストランとして高く評価されているという話を聞いた。「ホンマカイナ・・・?」。ホンマであった。

 そして繁盛レストランの仲間入りをするのかと思いきや...。グッド・ラックの後にバッド・ラックが訪れた。1989年ころより豪州経済はリセッション(景気後退)に入り、大手の銀行や不動産会社が倒産の危機となる。従業員が店によく来てくれていたブロードウェイのグレース・ブラザーズ百貨店がなんと閉鎖された。このままでは、せっかく順調になってきた返済金の支払いも都合がつかなくなる。投資していただいた樋口さんに電話をすると、店の営業権を売れとのこと。私は、「死んでも売りません」と言い、電話を叩き切った。その後、長い間、樋口さんには連絡しなかった。男が命をかけてやると言った以上、やめる時は死ぬ時だと思っていた。そして思いついたのは、レストランの設備を生かしてのケータリング事業であった。

ケータリング・ビジネスも好評を博したが...

ケータリング・ビジネスも
好評を博したが...。

ケータリング・ビジネスにTRY ! しかし、閉店

 設備はある。家賃はレストランとして払っている。コンセプトは「レストランの味をオフィスへお届けします」。
3ドル80セントから8ドル80セントまでの各種弁当の週替わりメニューをオフィスにファックスし、指定時間にお届けする。特製鯛飯弁当、鮭ハラ子飯弁当、バクダン・オニギリ弁当、ピクニック弁当、日本全国駅弁祭りなどの新メニューを企画し、朝5時半から約100食を6人で作った。配達は時間との勝負。15分以上遅れたら無料とした。スタッフは病気でも休ませない。

 だが、1人前あたり70セント程度の儲けしかなかった。そのころ産まれた長女、智絵里を左手で抱えながら、右手でハンドルを握り、弁当をデリバリーした。その後、片付けしてからレストランの営業をしていく。十分な設備がないため、ご飯を5つの鍋で炊いた。ある観光企業のグルメの方などいろいろなお客様からよく苦情をいただいた。謝って回る日々。また増えてくるパーティーでのケータリング需要...。

 しかし、スタートして1年後の12月の暮れ、ぜんざいのデザートを付けた年越し弁当を配達中、私は前の車に追突事故を起こしてしまう。車中に散らばった茶色のぜんざい...。お客様に届けられない昼食弁当...。私はもうこれでおしまいだと思い決心した。店を閉めることを。本音を言うと、朝から晩まで働いて、利益の少ない飲食業がもう嫌になった。

■以下にケータリング事業に興味のある方のために、私の経験から5カ条を述べる。

(1)薄利多売をするな !
競争相手の出現、車の償却コスト、デリバリーの人件費を考えること

(2)お客様は必ず味に飽きる !
どんなに良い米を使っても、良い食材を使っても、その店の味に飽きてくる

(3)食の安全に気を付けろ !
設備不足のための食の事故に注意。大量調理には設備が必要。

(4)販売だけではなく、そのフォローがケータリングには大切 !
レストランならお客様が食べる様子を見ることができるが、ケータリングは分からない。よって本当にうまくいったかどうか、再度の電話、足を運んでの意見の聞き取りが、再注文のポイントとなる。

(5)コンベクション・オーブンを使え !
300人分の蒸し物、焼き物、揚げ物、ご飯がこの設備1台でできる。人件費のカット、またデザートメニューにも最適。リースにすると1週間50ドル程度。

グリーブ・ポイント・ロードにあったカレー・レストラン。定松氏の原点がここにある

グリーブ・ポイント・ロードに
あったカレー・レストラン。
定松氏の原点がここにある

閉店から1年半、鱒屋創業への道のり

 私にとってのケータリング事業での教訓は、その後、2000年シドニー・オリンピックでの約7,000食のケータリング、また、たび重なる500人分の日本観光客様用弁当などにつながっていった。

 閉店後、ケアンズとゴールドコーストでカレー・ショップのオープンを検討したが断念し、ダーリング・ハーバーにあるジョーダンズ・シーフード・レストランで働き始めた。日本人のいないところで働きたかった。以前のホテルのように...。ジョーダンズは500席。私は時給10ドルの寿司バー担当として採用されたが、新メニューを発案し、1年後には前菜部門、デザート部門の責任者となった。部下が10人できた。給料も週1,500ドル程度あったと思う。ジョーダンズでは、刺し身よりおいしい鮭料理、サーモン・サビーチェ、サーモン・グラグラックスなどを学んだ。また、シーフードが中心であっても、いつも赤ワインとマッチするメニューを考案していた。

 食材とワインをマッチングさせるために、各種のハーブ、ディル、バジル、ローズマリーなどを使った。フルーツを料理に使い、和え物、加熱しての付け合わせにした。ワインとその食材がマッチングしていく。おもしろいことに、茹でたロブスター、カニのミソは洗って捨ててしまう。オージーはスイート・チリ・ソースやハニー・ソイ・ソースが大好きであり、ジョーダンズでは、ディナー客の半分以上が必ずデザートを注文した。そのため、原価率をトータルで下げられない。日本人と違った料理を提供する間合い...。

 この店にも、若いけれども、すばらしく仕事ができ、料理センスのあるシェフがいた。27歳の料理長、アンドリューには、私は人間の器量、風格で勝てないと感じた。

 ジョーダンズを終了し、数店でホール・マネージャー、シェフとして働きながら、豪州で成長していく観光業、大きな時代の流れを肌で感じた。観光需要、プラス現地人に人気の出る、その当時はなかった、鍋物を中心としたシーフード・レストランを模索し始めた。決めたのが、現在の「鱒屋」があるオコーネル・ストリート12番地。つぶれかけていたイタリアン・カフェを5万5,000ドルで購入した。設備はほとんどなかった。新聞に「バーゲン・プライス(破格値)」と大きく出ていて、そこで人生第3回目の真剣勝負を挑んだ私。しかし現実は、その後8カ月にわたり、円形脱毛症となってゆく。

 来月号では、日本人、中国人、白人の人種による食文化の違いとともに、鱒屋創業からシドニー・オリンピックのケータリングでの成功話をしていく。ケータリング事業をやっていた当時、お世話になったひとえさん、水越さん、バンブルグハウスの皆様、信原様、今でも思い出します。あの当時は誠にありがとうございました。
今日はこれまで。Have you enjoyed ?

※シドニー現地情報紙の「日豪プレス」2004年5月号に掲載されたコラムです。

   
 
   

 鱒屋グループ コピーライト
制作:Birdsland (Aust) Pty Ltd